ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

『茹で過ぎたポーチドエッグ』 ドラマ わたしを離さないで第三話の感想

 

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

 

 

 ふわふわで割れやすく、繊細。食器で押せばたちまち黄身が割れてしみ出てきます。卵を固まらせないため湯の中に酢を入れたり、茹でながら卵を転がしたりと、作るにはコツと手間暇がかかります。栄養学的な見地から見ても最良の卵の料理法と言われるポーチドエッグが「わたしを離さないで」の原作およびその映画版とするならば、TBSでやっているドラマのほうは、『茹で過ぎたポーチドエッグ』。

3話を見ただけなのにどうしても語りたくなってエントリーを書きました。

 

16歳にしては違和感がありすぎる俳優陣(それは映画も同じだけど)、明らかに映画版「わたしを離さないで」の劣化コピーになっている衣装デザイン、色彩などのヴィジュアル。提供前と提供後であまり演技の違いが見受けられない三浦春馬。(映画版の俳優が巧すぎたのかもですが)いろいろと言いたいことはありますが、一番言いたいのは脚色の失敗です。

日本のドラマを見る層が(というか、世の中の大部分の人が)固茹での方が好みなのは分かります。
つまり、白黒はっきりつけた方がわかりやすいし、白黒はっきりついているものが好みなのもわかります。
具体的に言えば、水川あさみ演じる美和(原作ではルース)と綾瀬はるか演じる主人公、恭子(原作ではキャス)の確執です。カズオ・イシグロは、決してルースを完全な悪役にはしませんでした。確かにルースは自分を守るために嘘をつくし、なにかとずるいところがある。しかし、それは彼女の生存戦略なのであって、その弱さも彼女の魅力であり、人間味の一つでした。
キャスにしても、カズオ・イシグロはあえて聖女としては描いていない。トミー(ドラマでは三浦春馬演じる友彦)に理不尽とも言える八つ当たりをさんざんしている。
完全な善人も、完全な悪人も出てこないというのが、カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」でした。

しかし、ドラマ版は美和を悪役に、恭子を聖女に仕立てあげることで構図をシンプルにしてしまいました。

そして何よりも問題なのは、どうにかして提供を『免除』できないかと彼らが考えていることです。ドラマ版しか知らない人は驚くかもしれませんが、置かれた状況は全く同じなのにも関わらず、原作の、あるいは映画版の登場人物は誰一人として提供を『免除』してもらおうとしませんでした。そこに、この作品の滋味が隠されていると思うのです。

もちろん、これがハリウッド映画なら、あるいはエンターテインメント系小説なら『免除』が正解です。しかし、カズオ・イシグロの作品は純文学です。この作品は、なんとか頑張って提供を『免除』してもらい、悪女から恋人を奪い返して幸せに暮らすというハリウッド的なサクセス・ストーリーではないのです。

原作では彼らは提供を『延期』してもらおうとしていました。なぜなら、『誰も死からは逃れられない』から。
人間は誰しも死ぬ。原作のつきつけるテーマはとても重いものです。(原作のレビューはこちら)

映画版は原作の持つ重さをそのままに、カズオ・イシグロの抑えられた美しい文章をそのままヴィジュアルにしたような美しい映画でした。
ドラマ版はその劣化コピーと言わざるを得ない。
今のところはそんな感想です。そしてたぶん、もう見ることはないでしょう。

エンターテインメントに徹していては、哲学的な内容はできないのか?という問いに対して、フランク・ダラボンの『ウォーキング・デッド』が答えを与えてくれていると思います。驚くべきことに、二つは両立するのです。