ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

その愛は破滅を宿命付けられている「死の棘」

 


『怒りには 目的がある』
そう言ったのはオーストリアの心理学者アルフレッド・アドラーだ。

例えば、「どうしても子供や夫に対する怒りをコントロールできない」という女性がいたとする。さっきまで烈火の如く怒り、子供を叱責していた母親も、電話がかかってくればまるで憑き物が落ちたかのように上機嫌で電話応対し、愛想よく振る舞う。それで「母親の怒りは収まり、機嫌がよくなったのだ」と子供は安堵するかもしれない。でも、決して油断してはならない。
母親は礼儀正しく相手に別れの挨拶をして、受話器をおいたあと、子供に再び怒りの形相を向ける。子供は状況が電話の前とまったく変わっていないと気がつくことになるのだ。

 

「死の棘」の中で、不貞を働いたことがバレた夫・トシオは妻・ミホに三日間不眠不休の追求を受ける。
追求はその三日だけに終わらず、ミホはトシオと愛人との手紙や、不倫中に書いた日記の内容を事あるごとに蒸し返して逆上し、トシオを激しく責め立てる。

 

「いったいどうするのかしら?あなたのきもちはどこにあるのかしら。どうなさるつもり?あたしはあなたには不必要なんでしょ。だってそうじゃないの。十年ものあいだ、そのように扱ってきたんじゃないの。あたしはもうがまんしませんよ。(中略)誰にもわからないようにじぶんを処分するくらいのことはあたしにもできます(中略)そのあとであなたは好きなようにその女とくらしたらいいでしょ」


巻末の解説を読むと、ミホのことを『そのすさまじい狂態にもかかわらず、あるいはそれゆえにこそ、美しく可憐で、しかも崇高なものに描き出した』とあるが、ぼくはこれを読んで首をかしげてしまった。
ここに書かれている女性は美しくも可憐でもないし、ましてや「崇高さ」など微塵も感じられない。ただの普通の不安がちな「女の子」である。(そう、成熟した大人の「女性」ではない)
そして、目に見えて狂気じみた妻のミホよりも、ぼくはむしろトシオの方に強烈な狂気を感じた。

 

「文学」という大義名分のもと、妻を狂わせ、子供たちを絶望に追い込む彼の身勝手さ。彼の行動はミホの狂気を誘い、強化する。寛解へ至ろうとすればその手を掴んで再び狂気の世界へと引きずり込む。

 

ミホが怒れば怒るほど夫婦の愛情は痩せて貧しくなったように、文学に過激さを求めれば求めるほど、「ドラマティックな」、あるいは「偉大な」文学からは遠ざかり、表現は痩せて貧しくなる。


にもかかわらず、2人はそれに気が付かず、同じところをぐるぐると回ってしまう。その袋小路になんとも言えぬ人間臭さとアイロニーを感じ、そこにこそ、ぼくは胸を打たれた。

 

死の棘 (新潮文庫)

死の棘 (新潮文庫)

 

 

 

 


諸説あるが、島尾敏雄は日本文学の潮流の中で『第三の新人』に分類される。第三の新人とは、第二次世界大戦後の『戦後派』のカウンターとして生まれた流派だ。

 

戦争はあらゆるアートに影響を及ぼす。ピカソの『ゲルニカ』は言うに及ばず、文学の中でもその影響力は強く、「偉大な文学」の作品群のなかに戦争をテーマにしたものは数多い。

 

トルストイの『戦争と平和』、ヘミングウェイ武器よさらば 』『誰がために鐘は鳴る』、日本で言えば、戦後派の大岡昇平が書いた『野火』が挙げられる。

 

戦争はドラマだ。昨日まで家族と一緒に平和に暮らしていたただの一般人が徴兵され、あるいは自ら志願して入隊し、人を殺し、仲間が殺されるのを目の当たりにし、追い詰められた人間のどす黒い部分に立ち会う。

 

村上春樹がどこかで『戦争を経験していない世代なので、自分は軽くて小回りの利く文体を身につける必要があった』というようなコメントをしていた。まるで戦争を経験していないことが負い目であるかのような印象を受け、驚いた記憶がある。


また、ヘミングウェイ第一次世界大戦従軍経験があるが、 文学的な着想を得るために志願してスペイン内戦に参加したと言う。

 

島尾敏雄も戦争経験者ではあるが、彼は戦争経験よりもむしろ私小説のほうに回帰していくことを望んだようだ。
終戦は1945年、大岡昇平「野火」は1955年、島尾敏雄「死の棘」は前身となった短編を含めると1960年〜1975年。実に15年の歳月を費やして書かれる)

 

戦争の経験が彼にどんな影響を与えたのか。おそらくは想像を絶するほどのプレッシャーと刺激を彼にもたらしたのだろう。戦後派が直接的に戦争を書こうとするのに対し、第三の新人は日常的なできごとを題材に、深い部分にある人間心理を描こうとする。

死の棘の中で、トシオとミホはお互いがお互いを支配しようとして日々パワーゲームに明け暮れていた。ミホが「あいつと何回映画を見に行ったのか、何をプレゼントしてやったのか」と追求を始め、ときに暴力まで使ってトシオを追い詰めると、彼は突然喚き散らして服を脱ぎ、線路に飛び込もうとする。

怒りによって相手を支配しようとするライフスタイルはチキンレースになってしまう。チキンレースの末路は「死」だが、死の棘は冒頭からすでに死をほのめかしている。あの2人の間に、もはや愛はない。あるのは執着と、相手を懲らしめてやりたいという嗜虐心だけだ。

 

同じように、文学の中で「過激さ」のみを求めると、むしろ逆に表現は痩せて貧しくなる。この事については例え話を使って説明したい。

野球で例えてみようと思う。
ここに、ある高校球児がいて、かれは苦労の末に甲子園に出場したとする。
ぜんぜん知らない高校球児が甲子園に出ても、ぼくたちは特に心を動かされない。これは仕方のないことだ。ぼくたちにも自分の人生というものがあるし、他に心を砕かなくてはならないことが日々発生している。

しかし、彼がプロ野球チームに入団し、渡米してメジャーリーグに移籍し、二度国民栄誉賞のオファーを受けるが二度とも辞退するような英雄的存在であれば、ぼくたちは彼に関心を持つだろう。おや、と思って彼のニュースを読み、彼の生い立ちを調べたりするかもしれない。

でも、野球選手が全員イチローになれるわけじゃないし、なるべきでもない。とにかく足の速い選手、守備にはむらがあるけどチャンスの打席に強い選手、そういう個性を持った選手が同じルールで戦うから面白いし、戦略が生まれるのだろう。

だが、パワーゲームはそれを許さない。読者の耳目を集めるためにはとにかく過激なエピソードのみが必要になる。そこに戦略はない。待っているのは破滅だけだ。

 

再び、高校球児の話に戻る。では、この高校球児があなたの隣の家に住んでいる少年だったらどうだろう?あなたは幼少期から彼のことを知っており、彼のパーソナリティも良く知っている。彼が喘息持ちだったり、よく近所のガキ大将に泣かされていたり、なんらかのハンディキャップを持っていたとしたらどうだろう?彼が精悍な顔つきで甲子園のバッターボックスに立つ姿を見て感動しないだろうか?

これが物語の力である。どういう人間が何をし、その結果読者にどんな印象をあたえるか?それがテーマ性と物語性に満ちた物語だ。

 

第三の新人には二つの潮流がある。私小説に回帰した島尾敏雄と、欧米の小説のようにテーマ性、物語性を重視した遠藤周作のような潮流だ。
私小説すべてがそう、とは言わないが、少くともこの『死の棘』は物語としてはフィジカルが弱く、パワーゲームに陥ってしまっている。それがゆえに、死の棘は無慈悲な悪魔のように、より過激なエピソードを要求し、結果、表現は単調で彩りのないものになっている。

まるで執拗にお互いを支配しようとし合い、その結果、枯れ果ててしまった二人の愛のように。


しかし、ぼくは表現のために妻を狂わせた島尾敏雄を憎めない。たとえ悪魔に魂を売ってでもこの世の中に意味のある作品を残そう、という気迫がこの小説にはむせ返るほど充満しているからだ。

この本で描かれているものは愛ではない。
でも、この本で描かれる苦悩はまごうことなき本物の表現者の苦悩だ。
2人の愛も、文学も、これより先に進めば待つのは「死」だけだとしても、それでも引き返すことはできない。その袋小路が、読む人の胸を打つのだろう。