ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

もう一つの軸を持つということ ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー

著者のブレイディみかこさんは日本人女性で、アイルランド人の男性と結婚し、二人の間には中学生の息子がいる。彼女らは英国の都市、ブライトンに三人暮らしだ。ときたまネットで見かける彼女の記事はどれも目のつけどころが鋭く、自身の考えをわかりやすく説明しているのでしっかりと腹に落ちてくる。だからこそ彼女が中学生の息子をイギリスでどう育て、その過程でぶつかった問題に対してどう感じ、どう対処したのかが気になってこの本を手に取った。 

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー
 

 

タイトルから類推できるように、アイルランド人と日本人の親を持つ中学生の「息子」は、イエロー(黄色人種)でホワイト(白色人種)だ。中学生といえば、自分のアイデンティティについて悩み始める年頃である。英国の元底辺校に進学した彼は、人種差別の問題にぶち当たる。
外見は日本人然としていても日本語を話す事ができない彼は、日本に行けば「ガイジン」として扱われ、英国では「東洋人」として扱われる。彼はどちらの国も、どちらの民族も自分の帰属する集団だという意識を持つ事ができず、ちょっとブルー(悲しい、あるいは寂しい気持ち)になる。

とはいえ、この本が書かれたのは2019年だ。差別と言ってもステレオタイプな差別はおおっぴらにはなされない。加えて、英国のEU離脱や、米国のトランプ政権樹立についても著者の意見が随所に散見される。

この本を読んでいて印象に残っているのは、英国のPC(ポリティカルコレクトネス)の変遷だ。ご存知の通り、英国は「イングランド」「スコットランド」「ウェールズ」および「北部アイルランド」の連合国である。
かつてイングランド出身の英国人が、「わたしは「イングリッシュ」である」と名乗るのはPC的にNGだった。なぜならイングランド以外の地域が入っていなくて排他的だからだ。それからそれらの地域を含んだ「ブリティッシュ」になったが、次はそれがPC的に「ヤバイ」表現になり、やがて「ヨーロピアン」と名乗るようになった。ところが、そんなPCに気を付けていた英国では今何が起こっているだろう?

著者や著者の息子は差別の対象になるが、彼らが裕福な英国人から差別されることはない。彼らが差別されるのは低所得者層の白人だったり、東欧から来た移民だったりする。そして、彼らもまた「ホワイトトラッシュ」あるいは「チャヴ」(どちらも白人低所得者を差別する言葉)という呼び名で差別を受けるし、移民は移民でまた差別の対象になる。問題はより内在化し、複雑になっている。

ぼくも一月末からイングランドで暮らしているが、渡英して日が浅いので街でそうした差別的な扱いを受けたことはない。働いているのが日系企業だから日本人も多いし、会社で人種差別をうけたりはしない。社内規定で、人種差別的な言動に対して厳罰がある、というのもストッパになっているかもしれない。

ただ、8年前に半年間英国で暮らしたことがあり、そのときには近所の中学生の集団に人種差別的な言動をされたことがあるし、「ニーハオ」と言われたりすることもあった。ただ、ぼくは成人男性で、身長も低い方ではないので、それがフィルターになっている部分はあると思う。

2、3年ほど前、アメリカに長期出張に行っていたとき、取引先のイタリア系アメリカ人が、韓国系アメリカ人のレストランスタッフに、「英語がうまいな」と発言した。言われた韓国系アメリカ人と言ったイタリア系アメリカ人は喧嘩にこそならなかったが、韓国系のほうがムッとしながら「俺はアメリカ人だ」と返していてひやっとしたことを思い出した。

いくら蓋をしようとしても、それはふとした拍子に表出する。PCはいくら気を付けていても相手の尻尾を踏んで怒らせることもあるし、不用意な相手がこちらの尻尾を踏むこともある。あるいは程度の多寡は別として意図して悪意をぶつけられることもある。こうした差別は完全に消えることはないのかもしれない。

行き過ぎたPCというものの揺り戻しが、もしかしたらEU離脱やトランプ政権の支持を生んでいるのかもしれない。右か左か、という軸は行き過ぎれば社会は息苦しく、身動きが取れなくなる。

この本のタイトルになった、「ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー」という言葉は、カラフルで心にいつまでも残る。これはブレイディみかこさんの息子さんがノートに書き留めたものらしい。

この本の最後に、彼自身が、今はブルーじゃなくてグリーンだ、と言っており、それが爽やかな読後感をもたらした。
「ぼくはイエローでホワイトでちょっとグリーン」。
グリーンとは「未熟」という意味がある。右とか左とかだけではなく、成熟しているか、未熟なのか、という指標も鑑みてみるべきだろう。
彼はまだ中学生で、自分はまだグリーンなのだ、という自覚がある。もし成熟した大人の男になったら、もっと上手にこの問題を解決するために立ち回ることができるかもしれない。この問題を前にしてブルーになっているのはアンクール(カッコ悪い)だ、と彼は考えている。彼のその潔さと軽やかさに何か救われたような気持ちになった。
右か左か、それだけでなく、この発言は「グリーン」なのではないか?と立ち止まってみることは年齢に関係なくどんな人間にとっても重要なことなのかもしれない。