ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

東でも西でもないアメリカ 「グリーンブック」

1962年、黒人は白人のいる病院、バス、電車、レストランなどに入れないという人種差別的内容を含んだジム・クロウ法が有効だった時代のアメリカ南部。そのアメリカ南部をあえてリサイタルツアーで旅する黒人の天才ピアニストの「ドク」と、彼の用心棒兼運転手のイタリア系アメリカ人トニー。今、どうしてこの二人のロードムービーアカデミー賞作品書という高い評価を得ているのだろうか?かつてこのような差別はあった、というリファレンス的な、歴史的な価値を見いだせたとしても、今この映画を評価する意味などあるのだろうか?

映画を見たあとでぼくは思った。確かに今この内容の映画を撮る意味はある。まず、そのヒントは、ドクの境遇だ。もしも単なるリファレンス的な意味での黒人差別を描きたいのなら、天才的なピアニストという才能(ギフト)を持った人物でなく、農場で働く黒人を主人公にするべきだ。そうすれば当時の黒人がいかに過酷な差別の中で生きてきたかがわかる。
しかし、グリーンブックはそうしなかった。それは一体なぜなのか?それはきっと我々人類が「次の段階」に来ているからだからだ。東でも西でもないアメリカ。沈黙していたはずの多数派、サイレントマジョリティーの逆襲が作品に対してインパクトを与えている。この作品においてぼくはそれを強く感じた。以下でそのことについて書きたいと思う。

 


【公式】『グリーンブック』3.1(金)公開/本予告

 

 

スイスの言語学者ソシュールによれば、区別する必要があるから言葉は生まれるのだという。この映画を観て連想したのは、「ホワイトトラッシュ」あるいは「プアホワイト」という言葉だ。

この言葉は低所得で学のない白人世帯のことを指す、最近になって生まれた現代の言葉だ。逆にプアブラックやブラックトラッシュなどという言葉はない。これまで治安を悪化させ、盗みを働き、貧困にあえいでいたのは黒人であったからだ。

白人男性はこれまでアメリカ社会においては圧倒的マジョリティであり、常に優遇されてきた歴史がある。アメリカ社会のなかで、彼らは常に重要なポストについてきた。政治家や資本家などの社会的に成功した人物はみな白人男性だった。ホワイトトラッシュという言葉は、グリーンブックの世界ではまだ無かった言葉だろう。しかし、ではこの言葉に該当するような白人男性がいなかったか?といえば、そうでもない。この映画ではトニーが現代で言われるホワイトトラッシュに当たるのではないかと思う。

終盤近く、トニーは俺の方があんたよりもよっぽど「黒人」だ、とドクに対して反発する。「城」に住み、金持ち相手にピアノを弾いて優雅に暮らしているドクよりも、低賃金で毎日あくせく働く底辺暮らしの自分のほうがよっぽど「黒人」だからだ。
この部分の主張だけクローズアップしてしまえばアメリカ社会の中で大炎上になることは必至だろう。しかし、これが「ホワイトトラッシュ」たちの偽らざる本音であり、魂の叫びなのではないだろうか。映画という、フィクションの形をとってしか主張することのできないギリギリの主張。これは物言わぬ多数派たちの逆襲なのだ。

差別など無い方がいい。それはおそらく現代を生きる我々世代のコンセンサス(同意事項)であろう。だが、そんな綺麗事とは別に、綺麗事でない事態が発生することは想像に難くない。
単純に考えて、100人の新卒を白人からとっていた企業が、人種と関係なく単純に能力だけで選ぶと宣言した場合、これまで就労できた白人の椅子は別の人種に取って代わられる。さらに言えばダイバーシティ(多様化)の旗印のもとに50人の白人と50人の黒人を取るという企業の場合は能力の比較的劣る50人の白人が職からあぶれることになる。(一般企業でこれはないかもしれないが、例えば広告タレントなんかはこういう事例も多いだろう)

ホワイトトラッシュという言葉の裏には成功した白人、あるいは成功した黒人という裏側がある。そう、現代において、黒人は成功を収めつつある。学習の機会があり、就労の機会があり、ジャズミュージシャンや俳優といった特殊な職種だけでなく、企業の重役や、能力が認められれば大統領にだってなることができる。

我々日本人にとってのアメリカの印象とは、主に東海岸と西海岸の二つに分けられるのではないだろうか。政治、経済の中心地である、ワシントン、ニューヨークの東海岸の経済圏と、映画、IT産業の中心地である、ロサンゼルス、カリフォルニアの西海岸の経済圏だ。それらの地域でアメリカの富の大部分を生み出しているし、全世界的に見ても例えばカリフォルニア州GDPは世界5位だそうで、州だけのGDPがイギリスのそれを上回っている。(https://www.businessinsider.jp/amp/post-166927)我々はマイクロソフト社のOS、ウィンドウズやオフィスで仕事をして、Apple社のiPhoneiPadで写真を撮ってFacebookInstagramにアップする。

だからアメリカは常に先進的で時代をリードし、技術力の面でも経済的な面でも一人勝ちしているという印象があるかもしれない。もちろん、それもアメリカという国の一つの側面だ。

だが、世界は(そしておそらくはアメリカ自身でさえも)これら「成功したアメリカ」の陰で物言わぬ多数派がいることを忘れていたのではないだろうか。その最たる例が、予想だにしなかったヒラリー・クリントンの敗北と、ドナルド・トランプの勝利である。これは、東でも西でもないアメリカの逆襲だ。

結局のところ、どれだけ時代が移り変わり世の中が進歩していったとしても差別などなくならない、と悲観的になることもあるかもしれない。しかし、現実はその逆だ。差別の問題は次のステップに移行しているのだ。差別は急速になくなりつつある。就学や就労の機会は人種や性別に関係なく与えられ、その結果として成功を収めて嫉妬の対象になるような、つまりドクのような黒人も現れている。だからこその「ホワイトトラッシュ」だ。彼らは今まで沈黙していたが、「物言わぬ多数派」としての存在感を示している。彼らの声を無視して平等は成立しない。依然問題はあるが、我々の世界はドクとトニーの頃よりも着実に進歩している。今回のアカデミー賞はその証左ではないだろうか。