ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

世界が私を愛さないなら私も世界を愛さない「ジョーカー」

久しぶりにすごい映画を見た。
アメリカではこの映画の公開に先駆け、警察と軍が警戒態勢に入った、とCNNが報じた。そのくらい影響力のある映画だ。

https://www.google.co.jp/amp/s/www.cnn.co.jp/amp/article/35143225.html


ヒッチコックトリュフォーの対談集である「映画術」という本のなかで、観客は登場人物の善悪には関係なく、スクリーンに映った人物に感情移入してしまうという指摘があった。
例えば、泥棒がどこかに侵入して何か盗み取ろうとするシーンを描いたとする。そこに家主が入ってきて犯行が見つかりそうになると、観客はつい泥棒のほうに感情移入してしまい、「捕まらないで」と思ってしまうのだという。

これは我々のもつ「共感」のなせる業だ。我々は生まれてから死ぬまで、「共感」無しに生きることはできない。映画や小説、漫画にゲームなどのフィクションを楽しむためにも「共感」は使われるし、誰かと信頼関係を築くためには「共感」の力を使わなくてはならない。仕事やプライベート、趣味の集まりに至るまで、「共感」の能力こそが信頼関係を築く鍵となる。

この力は強力だ。共感のために命を投げ出すものまで現れる。しかし、強力すぎる効果を持つものは逆に命取りともなりうるのではないかと思う。ちょうど抗生剤として有用なペニシリンがしばしばアレルギー反応で人を殺すように、「共感」は我々にとって優秀な道具であるとともに致命的な脆弱性にもなりうる。

「ジョーカー」は一体、何を伝えようとしていたのか?それを考えていきたいと思う。


『ジョーカー』心優しき男がなぜ悪のカリスマへ変貌したのか!? 衝撃の予告編解禁

 

 


本作では「笑い」というのが一つの主題になっている。本作の主人公「ジョーカー」ことアーサーは突発的に、何の脈絡もなく突然大声で笑ってしまうという病気を持っている。この設定は「ジョーカー」という映画を物語るうえで非常に優れており、この障害なくして「ジョーカー」を語ることはできないと思う。

一般的な意味合いにおいて、「笑い」というのは、コミュニケーションで重要な意味を持つ。たいていの「笑い」とは共感をベースにしているからだ。
「笑い」とは、「私はあなたに敵意を抱いてはいないですよ」というメッセージであり、「あなたの立場もよくわかっていますよ」というメッセージだったりする。我々の持つ「笑い」の効能は人との信頼関係を構築する上で大変効果があるものだ。だからこそ人々は連帯感を高めるために「笑い」を重視する。

互いに打ち解けた間柄で、互いの共感をベースにした馬鹿騒ぎはいくつになっても楽しいものだが、よく知らない人に、全く面白くも何ともない場面で大笑いをされるとかなり不気味なものがある。アーサーの障害が意味するもの、それは誰からも「共感」されない、という孤独だ。貧困、障害、老人介護、格差、社会保障の打ち切り。アーサーは様々な面で不遇だが、一番の不遇は誰とも信頼関係を築くことができないということではないか。

アーサーを追い詰め、ジョーカーへと変貌させたきっかけは母親とマレーの裏切りであるが、とくに興味深いのはマレーのほうだ。ジョーカーがマイノリティを象徴するとしたら、マレーというキャラクターはマジョリティを象徴するのではないか?コミュニケーション能力にあふれ、雄弁で羽振りがいい。感じがよく親切でこちらの事情を理解してくれる。アーサーはマレーを父親のように慕っていたようだ。人々から愛され、彼のジョークは人々を幸福にする。しかし、その「人々」のなかにアーサーは含まれてはいなかった。

ジョークというのは仲間同士の連帯感を高める。「共感」の力が多幸感を生み出す。しかしそれは、「我々はこいつとは違う」と誰かを爪弾きにすることで生み出される連帯感にもなりうる。切り捨てられた人間は傷つき、遺恨を残すことになるだろう。これは共感の持つ重大な脆弱性の一つだ。

そしてもう一つの脆弱性とは、たとえ間違った考えであっても「共感」してしまうということだ。

冒頭で言ったように、観客はスクリーンに映る人物に感情移入してしまう。「世界が我々を愛さないとき、我々も世界を愛さない」このメッセージは強力で齟齬がなく、簡単に覆すことができない。だからこそこの映画は問題視され、警察や軍まで警戒する事態になっている。我々は、世界を愛するように教わってきた。世界が我々を愛するとき、我々が世界を愛するのは簡単なことだろう。しかし、世界が我々を愛さないとき、それでも世界を愛するというのは難しい。

だからと言ってこの映画が悪い映画だ、と断じることはしない。なぜなら、現実世界に存在するたいていの悪徳とは正義の味方が簡単に倒せるようなものではなく、「強力で齟齬がなく、簡単に覆すことができない」ものであるからだ。これを表現しきったことは特筆に値すると思う。

これがヒーローの物語なのか、アンチヒーローの物語なのかは観客の価値観に委ねられている。この映画が封切られて世界中で上演されていることは、作り手の観客への信頼なくして出来ないことだと思う。この映画で我々は試されているのかもしれない。「それでも世界を愛することができるか?」と。

 

参考

 

定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー

定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー