ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

我々は何から疎外されているのか  カフカ「変身」

コロナ禍の影響でにわかにカミュの「ペスト」が注目を集めているらしい。
不条理が集団を襲った作品ということで「ペスト」は有名だが、カフカの「変身」は、不条理が個人を襲った作品として有名だ。

主人公、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目を覚ますと、自分が毒虫になっているのを発見する、というなんとも奇妙な出だしで、さらに言えばその後の展開も暗いのだが、個人的にはすごく好きな作品だ。なので、このエントリーで「変身」の魅力が伝われば、と思う。

 

変身(新潮文庫)

変身(新潮文庫)

 

 

 100分de名著の中で、この小説は「孤独」がテーマだと紹介していたが、ぼくはこの小説のテーマは「疎外」ではないかと思っている。「孤独」と「疎外」はよく似ているが、少し違う。「孤独」が他者との関係を含まないものに対して、「疎外」は他者から仲間外れにされるニュアンスを含むからだ。

カフカは「変身」の出版にあたり、表紙の絵には決して虫を描かないでほしい、と注文したそうだ。イラストができてしまうとどうしても読者は表紙のイラストの虫を連想してしまうので、カフカはそれを避けたかったのだろう。その結果できた表紙は写真の通りだ。

 

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この絵は、「変身」を読んだことのある人ならそのテーマがよくわかるだろうと思う。扉をはさんでこちら側の男がグレゴールを表現しており、少しだけ空いた扉の向こう側にはおそらく居間があり、そこには家族や間借り人、あるいは雇い主がいるのだろうと思われる。
ぼくがこの表紙の絵から連想するのは強い「疎外感」だ。

また、ある朝、自分が巨大な「毒虫」に変身していることに気がついたグレゴールは、とっくに出勤していなくてはいけない時間だというのに寝坊していることに気がつき、なんとか外に出ようとする。彼は自分が虫に変身しているというのに雇い主から解雇されてしまうことを恐れてその場を取り繕うことに躍起になる。

冒頭のこのシーンからみてもわかるように、「労働」もまたこの小説の大きなテーマの一つだ。「労働」と、「疎外」。そのふたつの言葉から連想するのはカール・マルクスの「労働疎外」だ。

カール・マルクスは、「資本主義における賃金労働では疎外が発生している」と主張している。これを「労働疎外」呼ぶ。

変身が書かれたのは1900年代初頭だが、この時期は産業革命が起きて、資本家である雇い主と、労働者、という二極化が急速に進んできた時代だ。つまり昔は小さな個人経営者だらけだったのが、大企業みたいなものが出来るようになった。するとどうなるかというと、営業、設計、製造、経理、人事、のように各機能が専門化される。

労働者はそのいずれかのセクションの担当として組織に取り込まれることになるが、労働がこれほど細切れになれば自分のやっていることが全体に対してどう作用するか分かりにくくなるし、他の部署に対しての興味もなくなる。そして、もっと言うと、他の部署から自分の仕事に干渉してほしくない、という「疎外」が発生し始める。

その結果起こるのは、「自分の仕事は高度に専門的なものであり、他の人間にはできない」と周囲に印象づけることだ。

こうした「労働疎外」は1900年初頭だけに起こっていたことなのだろうか?といえば、決してそんなことはなく、2020年の今でも起きている、あるいはさらにその疎外は深まっているのかもしれない。

疎外と専門性の神話みたいなものを、ぼく自身感じたことがある。
昔人事課から連絡があって、会社のHPの先輩社員インタビューのページにぼくの写真と文章を載せたいという依頼があった。それで仕事内容を学生向けに書いたのだが、人事課から書き直してほしいとNGをもらったことがある。自分としては、未経験の人に自分の仕事の内容をわかりやすく簡単に説明したつもりだったので、どうしてこの内容がNGだったのかわからなかった。それで人事課に理由を聞くと、「あなたの仕事の内容が簡単にできるように見えるから」らしい。
ぼくはメーカーで設計職をしているが、自分の仕事内容はいささか説明が難しく、込み入っている。だから分かりやすく説明したつもりだったのだが、しぶしぶそれを分かりにくく作り替えた思い出がある。

「変身」のなかでもこういう「疎外」が起こっているのではないかと思う。この話は、グレゴールが変身したことによって家族から疎外されるというような単純な話ではない。ひとつには、家族を疎外していたグレゴールが、今度は家族から疎外されるようになる話ではないかとぼくは捉えている。

では何から疎外していたか、というと、それは労働からだ。
虫に変身する前、両親と妹と四人で暮らすグレゴールは自分が労働して稼いだお金で三人を養うことを誇りに思っていた。彼は理不尽な雇い主と劣悪な労働条件に対して不満を持ちつつも、一方ではほかの家族を労働から疎外していた、とも言える。

しかし、グレゴールが変身したあと、当然彼は働きに出ることができないため、他の家族が労働せざるを得ない状況になっていく。その結果、社会から距離をとっていたグレゴール以外の家族が、社会と接点を持つようになる。そして皮肉なことに、グレゴールの変身後、太ってだらしなかった父親はしゃんとするし、他の家族もみんなイキイキするようになる。

社会に関わっていく、ということはどんな人間にとっても必要なものなのかもしれないが、問題は、マルクスが指摘するように労働の性質が変わってしまったことかもしれない。カフカの生きた時代から今に至るまで、我々の労働は細切れにされ、全体が見えづらくなっている。我々は自分たちの仕事が社会にどのようなインパクトを持ち、貢献しているかが見えにくい。

変身の前、グレゴールは家族を労働から疎外していたのと同時に、グレゴール自身もまた社会から疎外されていた。

こうした状況をこの小説が指摘しているために、グレゴールの世界は暗く、絶望感に満ちている。この小説の絶望感の正体とは、変身と関係なくどちらの状況でも疎外され、絶望せざるをえないこの世界自体のメタファーではないだろうか。そして、だからこそこの物語が我々現代人の心を捉えているのかもしれない。