ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

わたしは「かもめ」

 

「かもめ」という戯曲はふたつの大きな謎があると思う。
まずは、チェーホフはかもめを「喜劇 4幕」として書いたそうだが、筋として見ると全体的に暗くて救いのない話だ。読まれた人はこの戯曲のどこが喜劇なのか、と頭を悩ませるかもしれない。それともう一つ。後半で再会したニーナがトレープレフの部屋で何度も繰り返す、「わたしはかもめ」というセリフ。トレープレフが湖で撃ち殺した「かもめ」はいったい何を象徴しているのか?この2つが「かもめ」という戯曲を読む上で重要な謎ではないかと思う。

 

 

かもめ (集英社文庫)

かもめ (集英社文庫)

 

 

 

以下ネタバレを含む

 

個人的には昔読んだときも今読み返してもトレープレフがとにかく好きで、感情移入しながら読んだ。誰に感情移入するか、というのは人によってたぶん違うかと思う。ぼくがトレープレフを好きなのは、彼が「充たされていない」からであり、その「充たされなさ」が個人的に感情移入できるからだ。この戯曲は登場人物たちが皆「充たされていない」状態であり、それがキーポイントになると思う。それは個人にとっては悲劇的であるし、また逆に大きな視点で見ると喜劇的でもある。

改めてトレープレフ個人の視点だけを追ってみる。彼は物語の初期では恋人のニーナを作家のトリゴーリンに奪われ、文士になるという夢も果たせていない。「充たされていない」状態だ。それから4幕になると彼は文士としては成功を収めるが、あまり幸せそうではないし、トリゴーリンに捨てられたニーナを取り戻すことだってできそうだったのに、どういうわけか猟銃自殺して終劇となる。

4幕になって一見これから上向いて来そうなのに、とも思えるが、変わっていないものもある。ぼくが注目したのは彼の母親であるアルカージナとの親子関係だ。舞台の最初から最後まで、この親子関係はちょっと変わっているように見える。アルカージナはトレープレフの舞台をデカダンだ、とけなし、硫黄の演出を大げさだとくさすし、4幕で文士になったあとも彼の作品を「忙しいから読んでいない」と発言している。この親子の関係がちょっと変わっているのは、彼らがお互いを親子として愛情を抱きつつも、強烈なライバル関係にあるからではないかと思う。

トレープレフの創作動機は実はすごくシンプルで、女優として尊敬する母、アルカージナに認めてもらうことだったのではないかと思う。しかし、アルカージナにとって演劇の新形式を目指すトレープレフを認めることは自分のキャリアを否定することにもつながるため、決して認められない。この辺りに強いジレンマが生じている。トレープレフは文士として成功しても、ニーナと再び結ばれようとも決して充たされることはない。

それでは、とアルカージナを見てみると、彼女は彼女でやはり「充たされていない」。この戯曲はよくよく見てみると主要な登場人物全員がそれぞれ「充たされていない」。

この戯曲の登場を大まかな年代別で分けてみると、

(青年期)
トレープレフ
ニーナ
マーシャ 喪服の女 シャムラーエフの娘
メドヴェージェンコ マーシャが好きな教師

(中年期)
アルカージナ トレープレフの母 女優
トリゴーリン 作家
ドールン 医師
シャムラーエフ ソーリン家の支配人。退役中尉
ポリーナ シャムラーエフの妻 ドールンと恋仲

(老年期)
ソーリン

という感じになると思う。それぞれの充たされなさというのは、それぞれの年代で特徴づけられている。青年期は主に恋と仕事だが、中年期や老年期は青年期で夢見たものを手に入れた者は、別の充たされないものを夢想する。あるいは手に入れられなかったものはその充たされなさを強化する。
こうしてみると、望んで動いてその結果を得たとしても皆充たされない。こうした乾いたニヒリズムが喜劇性を産んでいる。また、トレープレフとアルカージナの関係を見ていて思うのは、人は実は自分の本当に望んでいるものを正確に理解していないのではないか、ということだ。

最後に、「かもめ」の解釈だが、ぼくは「かもめ」を「ふとやってきた誰か(あるいは何か)によって退屈まぎれに破滅させられてしまうもの」を意味しているように思う。そういう意味ではトレープレフもアルカージナやトリゴーリンの気まぐれによって破滅させられた「かもめ」であるとも言える。

こうした人生の儚さのようなものを例えてチェーホフは「喜劇」だと書いているのかもしれない。ひとりひとりにとってその人生は悲劇的かもしれないが、これを大きな視点で喜劇だと捉えれば、少しだけその辛さもやわらぐのではないだろうか。