ほんだなぶろぐ

読んだ本、漫画、見た映画などについてのレビューを、備忘録を兼ねて行っております。

人生の勝ち組を目指して ゴリオ爺さん

Wikipediaによれば、フランスでは出世のためならどんな手段も使う野心家のことをこの小説の主人公の名前をとって「ラスティニャック」と言うらしい。
なんとなく出世という言葉からは金持ちになることだったり、会社で重要なポストに就くことだったり、みたいなイメージがあるが、この小説で扱っているのは人生における「成功」とは何か、みたいなもう少し大きなテーマを扱っているのではないかと思った。

ある意味で人生とはルールもわからなければ成功の条件もわからないゲームに参加させられているようなものなのかもしれない。

 

ゴリオ爺さん (古典新訳文庫)

ゴリオ爺さん (古典新訳文庫)

 

 

 

 

 

名前は非常に有名なこの作品だが、読んでいる人は意外と少ないかも知れない。
ざっくりとしたあらすじを書くと、
舞台はパリ、ヌーヴ=サント=ジュヌヴィエーヴ通りにある下宿屋ヴォケール館。下宿の住人で貧乏な法学学生のウージェーヌ・ド・ラスティニャックはパリの社交界でデビューしてのし上がっていくことを夢見ていた。まず彼が目指したのはすでに社交界で存在感を持っていたアナスタジー・ド・レストー伯爵夫人の愛人になること。ラスティニャックは親戚であるボーセアン子爵婦人のつてをたどり、なんとかレストー夫人と知り合う。
ある日、ラスティニャックは、彼と同じく下宿に住み、住人たちからバカにされているゴリオという老人と、憧れのレストー夫人が密会しているのを見つける。それをレストー夫人のサロンで本人に向かって話すと、ラスティニャックはレストー夫人の怒りを買いサロンの出入りを禁止されてしまう。
実は、ゴリオとレストー夫人は親子であり、ゴリオは自身の財産のすべてを娘に与えていたため、今のような貧乏暮らしに身をやつしていることが明らかとなる。

古典的名作ということで読む前に身構えてしまうかもしれないけれど、本作はけっこう起伏に富んでいて、エンターテイメント作品としても優秀だ。
例えば、ラスティニャックは物語の初期、社交界の人間からまるで存在しないかのような扱いを受けていて、それで逆にここで成功してやろうと情熱を燃やす、という構成になっている。
ボーセアン子爵夫人はこの年若い野心家に対して社交界入門の手解きを授ける。
「計算高く冷徹になればなるほどあなたは出世するでしょう。相手を殴るときは情け容赦なくやりなさい。そうすればひとから怖がられます」
この言葉は彼女の人生観が出ていて印象的だ。
それに対して恩義を感じたラスティニャックが「万一、あなたのために危険な任務を遂行する勇敢な男が必要なときには」と返すのもドラマチックだった。

まず面白いな、と思うのがラスティニャックという人間の考える成功者像で、細かいところを見ていくと当然現代の感覚とはちょっと違う。例えば昼の2時半に燕尾服を着ているのを恥じている言及がある。これは当時のヨーロッパの貴族は昼のお茶用の服と夜のディナー用の服を変えるのが慣習となっていたのに対し、ラスティニャックはそれらの服を用立てる資金がなかったためにこれを恥じている。
また、どんな馬車に乗るかがその人物の経済状況を表しているので、パリの街で豪華な馬車を見せびらかすことがステータスだとも書かれている。
この作品では出てこないけど、当時の上流階級は仕事をしていないことが当然だったので、何か仕事をしていると下に見られる。その職業の内容は、例えば現代では社会的な地位が高い医者や弁護士などの職業であったとしても軽蔑の対象となってしまう。

どういう人物が、あるいはどういう振る舞いが世間に評価されるかというのは時代と場所の影響を強く受ける。言うまでもないことかもしれないけれど、現代の日本で例えば会食の時間によって服を着替えていたり、東京の表参道に馬車で乗りつけるような行為は話題にはなるかもしれないが、真似したいとは思わないんじゃないだろうか。

また、この小説が面白いのは「野心家」は数多く出てくるものの、全員の目指している人生の目標がちょっとずつ異なるということ。
例えば、デルフィーヌ・ド・ニュッシンゲン男爵夫人は資産額は姉に上回っているが、爵位で姉のアナスタジー・ド・レストー伯爵夫人に負けていてそれでコンプレックスを感じている。そのために、ボーセアン子爵夫人のサロンに呼ばれる名誉は喉から手が出るほど欲しい。

一方でゴリオは娘を第一に考えていて、彼女たちの幸せのために破滅に向かっていくが、バルザックが彼を無償の愛の持ち主然と書かなかったのも面白い。その証拠にちょいちょいゴリオの言動がおかしい。娘のニュッシンゲン夫人の書いた手紙がいい匂いがすると言ったり、ニュッシンゲン夫人の涙が染み込んだベストをラスティニャックから買い取ろうとしたり、ちょっと常軌を逸した言動にでている。だからなのか、彼の愛の重さに2人の娘も辟易しているような節がある。

ある意味では人生というのはルールのよくわからないゲームに参加させられることなのかもしれない。
なにが勝利条件なのか、何をしたら幸せなのか、金をたくさん稼いで贅沢な暮らしをすることか、子宝に恵まれて子供たちが立派に社会に巣立っていくことなのか?だいたいの「社会の総意」みたいなものはあれど、その総意にしても時代と場所によって刻々と変わる。

よくよく考えてみると、着ているもの、住んでいる場所、乗っている車みたいなもので裕福さを競うようなシーンは現代でも見られていたが、ウィズコロナ、アフターコロナではどうなるなるのだろう。
出かけられなければ高価な服も車も必要ないし、集まる必要がなければ大きな邸宅も不要だ。例えば今で言うとSNSでのフォロワー数だったり、クラウドファンディングでいくら集められたり、とかそういうものが影響力を示す指標としてあるのかな、などと考えたりした。

結局のところ、時代とか場所とかとは関係のない自分なりの目標がなければそういう「社会の総意」みたいなものに人生が左右され、彼らのように汲々とした人生を送ることになるのかもしれない。