ほんだなぶろぐ

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祝芥川賞「むらさきのスカートの女」は存在したか?

2019年7月。第161回芥川賞をみごと受賞されたのは今村夏子さんだ。かねてから上手な小説を書く人だと思っていた。力のある人が評価されるのは嬉しい。自身の敬愛する小川洋子の推挙で芥川賞を受賞したというのも何かの縁を感じる。まだ三十代と若い方なのでこれからますます活躍されることを期待したい。応援の意味もかねて受賞作の「むらさきのスカートの女」の書評を書こうと思う。

今村夏子の小説の魅力といえば「ひたひたした不気味な主人公」であると断言したい。「星の子」「あひる」「こちらあみ子」を読んだことがある。どれも特に派手な事件は起きないのだが、際立っているのは主人公の不気味さだ。村田沙耶香の「コンビニ人間」を引き合いに出す人もいるが、今村夏子の主人公の自意識は村田沙耶香のそれとは少し違う。一言で言うなら、「コンビニ人間」は「生きづらい、帰属できない人間が周囲の帰属せよと言う言葉に反して他人を拒絶する」話だが、「むらさきのスカートの女」は「生きづらい、どこにも帰属できない人間が、独自の帰属先を求め、他人を自分と同じ場所に引きずり込もうとする」話である。村田のように自己充足的でなく、周りの誰かを引きずり込もうと、能動的に暴走していくのが特徴だ。だから怖い。

そして、本作での主人公の帰属先とは、「むらさきのスカートの女」に他ならない。この小説の根幹となるテーマを考えたとき、以下の設問がふさわしいのではないかと思う。果たして「むらさきのスカートの女」は「存在」したのか?

以下は、注意してネタバレを排除しましたが、いくぶんかネタバレを含んでいるかもしれませんのでご注意ください。

 

むらさきのスカートの女

むらさきのスカートの女

 

 

 

あらすじとしては以下のようになる。

主人公の女性は近所に住む「むらさきのスカートの女」と呼ばれる女性が気になって仕方がない。主人公はかなりの長期間彼女を観察し続けて行動パターンを把握していた。その結果、むらさきのスカートの女は今は無職であり、無職の期間が長引いてきたのでそろそろ職を探すはずだ。そう推理した主人公は、毎日彼女が座ってクリームパンを食べる公園のベンチに、自分の職場の求人欄をマークした求人雑誌を置いて、自分の職場に面接に来るように仕向ける。


あらすじを読んでわかるように、主人公の女性は簡単に言えばストーカー気質の人間である。「むらさきのスカートの女」に対して異常なまでに執着しており、彼女をつぶさに観察している。「むらさきのスカートの女」が公園のベンチに座り、パン屋で買ったクリームパンをほおばる姿が実に克明に描かれる。清潔感のあまりないぱさついた髪や、化粧けのない痩けた顔が描かれ、近所の小学生からちょっかいをかけられている姿も描かれている。

前半部分の「むらさきのスカートの女」は、地元では芸能人に匹敵するレベルの有名人だと主人公が解説している。彼女が毎日座る公園のベンチは彼女専用であると周知されており、街行く人はみんな彼女の一挙手一投足に注意している。何人かの人たちが彼女にわざとぶつかろうとするが、そのたびに彼女は華麗に避ける。
しかし、忘れてはいけないのが、この語りは主人公の視点からのものだということだ。彼女のまなざしを通して語られる「むらさきのスカートの女」は超然とした孤高の女であり、街の有名人なのだが、それにしては辻褄の合わないことがいくつか出てくる。例えば、公園でご飯を食べに来たサラリーマンは彼女の専用ベンチを知らないし、いつも公園で遊んでいる小学生以外、彼女に積極的にちょっかいをかけたり噂話をしたりする人もいない。主人公の努力が功を奏して、主人公の職場に「むらさきのスカートの女」がアルバイトに来るようになり、彼女の本名が「日野まゆ子」だともわかる。それに従い、まゆ子のことが徐々に読者に提示されていく展開になっていくのだが、女のアイデンティティとも言える「むらさきのスカート」を、彼女が必ずしも毎日履いていないらしいこともわかる。

 

ここではじめの問に戻る。果たして、「むらさきのスカートの女」など存在したのだろうか?
主人公は最初からほとんど最後までまゆ子に話しかけたりしない。ただ遠くにいて観察し、間接的にメッセージを送り続けているにすぎない。印象的なのは、「むらさきのスカートの女」の本名が判明した後も主人公は地の文で頑なに「むらさきのスカートの女」と呼んでいたことだ。

明らかに今村夏子は「信頼できない語り手」という文学的テクニックを使っている。「語り手」である主人公は、事実とは異なる情報を読者であるわれわれに信じ込ませようとしている。それは、主人公と「むらさきのスカートの女」がいかに似ているか、いかに「周囲から浮いてしまう彼女」を自分ならわかってあげられるか、ということではないだろうか。主人公は「むらさきのスカートの女」の一番の理解者になりたいし、彼女から理解されたい。あるいはいっそ彼女になりたいと思っているのかもしれない。
しかし、血を持ち肉を持った「日野まゆ子」という女性は、知れば知るほど主人公の考えるような女性ではないことが浮き彫りになる。これがこの小説の根幹をなす構造だ。主人公が渇望しているのは「むらさきのスカートの女」であり、「日野まゆ子」ではない。ここに主人公の異常性がある。「信頼できない語り手」は自身の信頼できなさと直面する。「むらさきのスカートの女」と「日野まゆ子」は乖離していく。そこで主人公はどう行動するのか? これがこの小説の読ませどころである。「むらさきのスカートの女」の話をしながら、浮き彫りになっていくのは皮肉にも「むらさきのスカートの女」の俗っぽい面であり、そして同時に浮き彫りになっていくのは語り手である主人公の非凡な、狂気に満ちた面だ。

主人公が渇望した「むらさきのスカートの女」とは果たして存在したのだろうか? 彼女のままならなさが「青い鳥」ならぬ「むらさきのスカートの女」を求めずにはいられないのだとしたら、これほど人間くさく、物哀しい話もない。ぼくはそこに今村夏子という小説家の作家性と非凡な才能を感じる。